1881年8月1日

創業者であり、モーガンのクルマの運命の舵取りをほぼ50年にわたって行った男、ヘンリー・フレドリック・スタンリー・モーガンは、イギリス中部ヘレフォードシャーのモートン・ジェフリースという村で1981年8月に生まれた。父のH.G.モーガンは、近くのストーク・レイシー村の教会(ジョージの父のヘンリー・モーガンが教会主管者だった)の司祭だった。家族や親しい友人にはハリーと呼ばれた(業界ではシンプルにH.F.S.)彼は、ケントのブロードステアーズにあるストーンハウス校、ウィルトシャーのモーバラ・カレッジ、南ロンドン・シデナムのクリスタルパレスにあるスクール・オブ・プラクティカル・エンジニアリングで学んだ。クリスタルパレスにいたときはサイクリングに熱中し、やがて自動車に転向した。ブロムヤードとヘレフォードの間にある17%の下り急勾配で暴走した3hpベンツで、身の毛のよだつ初ドライブを経験した彼は、無傷で生還したがかなり貧乏になった。クルマのダメージの修理代は約28ポンドにもなり、自分のクルマを所有するという彼の夢は遠のいた。

 

1901年1月1日

1901年、H.F.S.はG.W.R.(グレイト・ウエスタン・レイルウエイ)のスウィンドン鉄道工場で、チーフエンジニアのウィリアム・ディーンとジョージ・ジャクソン・チャーチウォードという、当時の2人の偉大な鉄道技師の見習いに就いた。見習い期間を終えると、彼はG.W.R.スウィンドンの製図オフィスで短期間働き、1904年12月に辞めるまで汽車の歴史にささやかな貢献をした。スウィンドン時代にハリーは最初のクルマ、1902年のイーグル・タンデムを買い、1904年6月にはウォルヴァーハンプトンのスターモーター・カンパニーが作った出来の良いマシン、リトル・スターに乗り換えた。彼はすぐに、自分の献身的な情熱を機関車と自動車のどちらに注ぐべきか迷うようになった。そして、自動車が勝った。

 

1905年5月1日

1905年5月、いつもエンスージアスティックな父のジョージの金銭的支援と励ましを受けて、H.F.S.はモルヴァーン・リンクのウスター・ロードにあるチェスナット荘という家を買い、鉄道の駅に近いこの家の横に小さなギャラージを建てた。ここで彼は、エドワード王朝時代のモータリストのニーズに応じるビジネスを始め、ダラク、ウーズリー、シドリー、ローヴァーなどのクルマのディーラーになった。ハリーの親友のレスリー・ベーコン(鉄道で見習いをしたもうひとりのカーエンスージアスト)は、彼のビジネスパートナーとして、チェスナット荘の下宿人になった。ワークショップの責任者には、アルフィー・ヘイルズというバーミンガム出身の有能な自動車エンジニアが任命された。またH.F.S.は、モルヴァーンで最初の定期運行の乗合バスサービスを、モルヴァーン・ヒルの周辺のさまざまな地区の間に走らせた。1906年には2軒目のギャラージを近くのウスター市に開設したが(鉄道で簡単に来られるようにフォアゲート・ストリート駅に近かった)、この支店は1年とちょっとで閉鎖された。モルヴァーン・リンクのギャラージは成功していたが、エンジニアリングに対するモーガンの情熱は、自分自身が設計する自動車のためのアイディアの実験をすぐに始めさせた。

 

1909年5月1日

モーガン・モーター・カンパニーの成功は、モーガン・スリーホイーラーというアイコンが土台になった。H.F.S.モーガンによるこのシンプルだが見事な設計は、初期のモータリングでもっとも成功したライトウエイトカーのひとつになった。パワフルなモーターサイクル用エンジンとシンプルなトランスミッションを、軽いシャシーとボディに取り付けるという主題は、「サイクルカー」として広く知られるようになった新しいタイプの乗り物を導き出した。こうして「新しいモータリング」の様式が、ささやかな収入しかない人々にオープンロードの自由をもたらした。モーガン・ラナバウトはこのムーブメントの先頭に立った。そしてそれゆえに、ハリー・モーガンはモータリングを大衆に広めた最初の人とみなすことができる。

 

1909年に作られたプロトタイプは、チューブラースチールのシャシーに7hpのプジョー製Vツインエンジンを載せた、シンプルなスリーホイーラーだった。主な特徴のひとつは、トンあたり90hpという異例のパワーウエイトレシオだった。これは、この小さな乗り物を、当時生産されていたどんなクルマとも同じくらい速く加速させることができた。H.F.S.は、モルヴァーン・カレッジとダービーシャーのレプトン・スクールでエンジニアリングを教えていたスティーブンソン‐ピーチ氏から、計り知れないほど貴重な助力を得て、開発作業の多くが彼のワークショップで行われた。もともとは商業的ベンチャーとして意図していなかったが、モーガンのマシンに対する好意的な反応は、量産を考慮することを彼に促した。レスリー・ベーコンは、これはあまりにもリスクが高すぎるとしてパートナーの座を降りたが、2人の男は残りの生涯も親友であり続けた。

 

1910年11月1日

最初の量産型モーガンは、ロンドンのジョン・アルフレッド・プレストウィッチ(JAP)社が製造した4hpの単気筒か8hpのVツインエンジンを搭載して、ティラー(舵棒)でステアするシンプルなシングルシートのマシンで、特許が認可された。特許申請の図面を描いたのは、後にスタンダード・モーター社のジョン・ブラック卿として有名になった、ひとりの聡明な若者だった。ラナバウトと呼ばれることになるこのマシンは、1910年11月にロンドンのオリンピア・モーターサイクルショーで公開された。

しかし、関心が示されたにもかかわらず、このマシンは数台しか製造・販売されなかった。それはもっぱら、2シーター仕様がなく、ステアリングがどことなく古臭いティラー式だからだった。そこで、設計の健全さを実証するために、H.F.S.モーガンは1ヶ月後にラナバウトをMCCのロンドン〜エクセター・トライアルにエントリーし、注目に値するパフォーマンスでゴールドメダルを獲得した。これは、耐久トライアルや、とくにブルックランズのオートドロームでのレースや記録挑戦のような、あらゆるタイプのモータースポーツでモーガンが獲得した数多くの勝利の最初だった。

 

1911年2月1日

翌年、2シーターのラナバウトが開発され、ホイール式のステアリングやフード(ボンネット)も装備された。1911年のオリンピアショーに展示されたとき、これはものすごい商業的成功を引き出した。この新鮮なマシンはハロッズの社長のミスター・バーブリッジの関心を惹き、その結果、有名なデパートのショーウインドウにクルマが登場した。これまでここに飾られた唯一のクルマである。膨大な需要に対処するために、最初はランニングシャシーだけがモルヴァーンで作られ、これにハロッズ独自のボディが取り付けられた。しかしこのやり方は、重いハロッズのボディがクルマのパフォーマンスに悪影響を及ぼしたために長続きしなかったので、H.F.S.はハロッズとの協定を終わらせた。その後すぐに、広範なディーラー網が国中に張りめぐらされた。

 

1912年5月4日

ファクトリーは、ミスター・モーガンと家族のために4シーターなどの設計を実験したが、このときは生産に移されなかった。モルヴァーン・リンクのウスター・ロードでは、クルマの製造が日夜増え続けた。そして、モーガンは初のサイクルカーだっただけでなく、疑問の余地なく最高のエンジニアリングと最良の信頼性を持つ、もっとも成功した乗り物として、これに続く他のメーカーの水準となった。トランスミッションはFastとVery Fastの2速を装備していたが、リバースギヤはなく、後退するには引力を利用するか、あるいはドライバーが降りて押すかだった。エンジンは通常、JAPのVツインだったが、シャシーの設計がシンプルだったので他のいろいろなタイプのエンジンも搭載できた。モーガン・モーター・カンパニーは1912年に非公開の有限会社として結成され、H.G.モーガン師が会長に、その息子が社長になった。ハリーは1912年6月、モルヴァーン・リンクの聖マティア教会の司祭だったアーチボールド・デイ師の次女のヒルダ・ルース・デイと結婚した。夫婦は、かなりそれらしく白に塗装されたとてもスマートなラナバウトに乗って、ウェールズに新婚旅行に出かけた。

 

1913年8月1日

1914年に戦争が勃発するまでの数年間、モーガンはサイクルカーのさまざまなクラスの国内・世界記録を10回達成し、大きな耐久トライアルで24個のゴールドメダルを勝ち取り、レーストラックで数多くの勝利をおさめた。これらの成功の中には、ブルックランズで行われた初のインターナショナル・サイクルカーレースで楽々と優勝した、ハリー・マーティン氏の驚異的なドライブがある。マーティンはわずか8分半でレースを終えたが、2位がフィニッシュしたのはそれより2分以上も後だったのだ。その数ヵ月後、ハリー・モーガンは60mphをわずかに切る速度でブルックランズを1時間走り、1100?tの1時間記録でサイクルカーカップに優勝した。父のH.G.モーガン師は、堂々たる聖職者の衣装をまとってその場にいたが、この有名なサーキットでシルクハットが着用されたのは、後にも先にもたぶんこのときだけだろう。

 

1913年10月20日

最初はまったくのファミリービジネスだった。H.F.S.モーガンの兄妹のドロシー・モーガン嬢は耐久トライアルの常連で、モーガン・スリーホイーラーに乗ってたくさんの一等賞を獲得した。1913年、1台のモーガンが名高いシェルスリー・ウォルシュ・ヒルクライムに出場して、22mphの平均速度で最速タイムを記録した。そしてその年の終わりには、モーガン・ラナバウトはどんなサイクルカーやライトカーよりも多くの耐久とスピードの賞を勝ち取っていた。

 

初期のころのもっとも注目に値する勝利は、フランスのアミアンで行われたインターナショナル・サイクルカー・グランプリでのW.G.マクミニースのものだった。マクミニースとパセンジャーのフランク・トマスは、ヨーロッパの多くの4ホイーラーを敵に回して勝った。これは、片方のフロントタイヤのチューブを交換するための停止を強いられたにもかかわらずだった。

 

W.G.マクミニースはサイクルカー誌の編集長だったので、その成功はモーガンに大々的なパブリシティをもたらした。イベントの後、彼は自分のクルマをジャバーウァク・オブ・ピカルディと命名し、この優勝車をベースにしたグランプリというニューモデルが、モーガンのモデルレンジに発表された。また、この勝利はモーガンへの注文をさらに増やしたので、ウスター・ロードのファクトリーは、最近の拡張にもかかわらず、需要に対応するには小さすぎることがすぐに明らかになった。

 

1913年12月1日

1913年12月、H.F.S.はモルヴァーン・リンクのピッカーズレイ・ロードの土地を、ビーチャム伯爵から購入した。これはウスター・ロードのファクトリーから4分の1マイルほどのところにある開けた農地で、1914年の夏、ここに2棟の大きなワークショップが建てられた。ここは現在のファクトリーのサイトがあるところで、伝統的に「ワークス」と呼ばれている。だがピッカーズレイ・ロードのサイトの開発は、第1次世界大戦の勃発によってすぐに縮小した。ウスター・ロードでの生産は続けられたものの、男たちが戦争にかり出され、手に入る資源が軍用品の生産に割り当てられたので、生産台数は尻すぼみになった。戦時中の顧客の一人、有名なエースパイロットだったイギリス陸軍航空隊のアルバート・ボール大尉は、特別なボディのグランプリを注文し、「このクルマを運転することは、地表から離れずに飛ぶことにもっとも近い」と言った。しかし何ということか、ボール大尉はクルマを納車されて間もなく、撃墜されて死んだ。

 

1911年11月1日

モーガンのレンジにニューモデルが加えられ、初めて4シーターのファミリー・ラナバウトが買えるようになった。これは1911年11月のロンドン・オリンピアショーで発表された。

 

1919年10月16日

1918年に平和が戻ったとき、モーガンは主に設計のシンプルさのおかげでフル生産を最初に再開できたメーカーのひとつになった。製造業務の大部分はいまやオリジナルのウスター・ロードの工場から、ピッカーズレイ・ロードの新しいファクトリーに移された。そして新しいファクトリーはほとんど直ちに拡張されて、既存の2棟のワークショップは建て増しが行われ、さらに2棟のワークショップが斜面を東に下ったところに建設された。ハリー・モーガンの長女のシルヴィアは増築部分の礎石を置き、新しいワークスは1919年10月16日に正式にオープンした。これを祝って、ディナーダンスパーティーが新しい塗装工房で社員やその家族や友人のために行われた。彼らの多くは軍隊から戻って、モーガンの元の職場で仕事を再開していた。その翌月には再びお祝いをする理由ができた。ハリーとルース・モーガンの5人の子供の中でただひとりの男子であるピーターが、11月3日に生まれたのである。

1920年1月1日

アルバート・ボール大尉が乗っていた特別なボディのグランプリに触発されたもう1台のスペシャルモーガンが、1920年に発表された。これは、有名な飛行士に因んでエアロと呼ばれた。

 

H.F.S.モーガンの最初の設計がとても先進的だったので、ボディワークのモディファイ以外は、数年間の間、ほとんど変更を必要としなかった。車体は丈夫で軽い作りを維持し、2速のトランスミッションシステムは1930年代の初期まで作り続けられた。ライトはアセチレンランプから電気に変わり、スターターが取り付けられた。耐久トライアルで得た経験の結果、フロントホイールにブレーキが装着され、モーガンのクルマはこの分野での革新を最初に享受したもののひとつになった。よりパワフルなオーバーヘッドバルブのVツインエンジンが搭載され、この時代では例外的なパフォーマンスをモーガンに与えた。

 

1921年1月21日

1920年代を通じて、モーガンはレースで成功に次ぐ成功を収め続けた。そしてとても速いので、ブルックランズでは同じクラスの4輪車の1周後にスタートすることが要求された。同様に、モーガンはトライアルズ・ヒルクライムでも最有力で、同クラスの他のマシンよりも多くのメダルやトロフィーを勝ち取った。モーガンのスリーホイーラーは海外でもよく売れた。フランスではムシュー・ダルモンがH.F.S.モーガンからライセンスを買い、パリのファクトリーでダルモン・モーガンを製造した。

1925年5月21日

1925年にジョージ・グッドオール氏が会社に加わり、1911年以来H.F.S.といっしょだったアルフィー・ヘイルズからゼネラルマネージャーの職務を引き継いだ。ジョージはやがてモーガン社の社長になり、1958年に役員会に席を残したまま退任した。

ピッカーズレイ・ロードのファクトリーは、1920年代を通じてさらに拡大し、1925年のこの絵では6棟のワークショップが描かれている。後に機械加工部門になる7棟目は1931年に建てられた。

 

1927年5月21日

レースでの成功は、もうひとつのスポーツモデルの登場を促した。流線型の低いボディワークとともに1927年に登場したスーパーエアロである。先に登場したモデルの成功に続いて、スーパーエアロもただちにトライアルズ・ヒルクライムとサーキットで活躍した。そして、モータースポーツで有力だっただけでなく、オープンロードで見られるもっともファッショナブルなマシンの1台になった。

 

1930年1月1日

1930年、パリの南のモンレリーにあるバンク付きサーキットで、グウェンダ・スチュワート夫人が100mph以上の速度で1時間世界記録を破った。彼女は後に、モンレリーからほど近いアルパージョの長いストレートで、シングルシーターのモーガンに乗って117mphを達成した。1931年になると、3速とリバースを装備したギヤボックスと、シングルチェーンと着脱式リアホイールの新しい駆動系が登場した。この方式は最終的にすべてのモデルに使われた。エンジンがマチレスから供給されるようになり、ハイパフォーマンスマシン(スーパーエアロの発展型)はスーパースポーツと呼ばれた。モーガンは競争力の高いモータリングで先頭に立ち続け、ハリーの娘たちもA.C.U.(オート・サイクル・ユニオン)のラリーで、ドニントンに姿を見せた。

 

1930年6月21日

堅牢で信頼性のあるモーガンは、エジプトのピラミッドの横で撮ったこの写真のように、世界各国にも輸出された。またファクトリーは、もっとおとなしいモデルとしてスタンダード・ラナバウトを作り、豪華な装備を施したデラックスや4シーターのファミリーも作った。モーガンは、スリーホイーラーのシャシーをベースにしたデリバリーバンという商用車まで発表した。

 

1933年1月1日

1933年はモーガンにとってヴィンテージイヤーになり、結果として多数の世界記録がもたらされた。またこの年は、フォードのエンジンを搭載したFタイプというニューモデルも出現した。このプロトタイプの写真はファクトリーの裏で撮影されたものである。最初の量産Fタイプは、F4という4人乗りのファミリーツアラーで、直後に2シーター仕様のF2が続いた。Fタイプは、チューブラースチール製のシャシーの代わりに、Z型断面のスチール製ラダーフレームを使った。普通のボンネットとラジエターを備えたこのクルマは、これまで生産された中でもっとも人気のあるスリーホイーラーのひとつで、他のいくつものメーカーにもアイディアをコピーされた。

 

1936年1月1日

1936年、1台のプロトタイプ4ホイーラーがトライアルやサーキットでテストされた後、ロンドンとパリのエキジビジョンで展示された。ニューモデルは、スリーホイーラーと区別するためにモーガン4-4と呼ばれ、4気筒と4輪であることが示された。車体はZセクションでフルウィズのスチールシャシーに、角断面のクロスメンバーを使い、ボディはアシュ(トネリコ)材の木製フレームにスチールをパネル張りした。この組み合わせは、スポーツカーに求められる軽さを備えたコーチビルドのクルマに信頼性を提供した。このクルマはただちに成功した。モーガン4-4ロードスターの発表の後、4シーターが発売され、1938年にはドロップヘッドクーペが矢継ぎ早に続いた。スリーホイーラーの生産は続けられたが、Vツインエンジン車の販売は減少した。しかしFタイプの人気は持続し、1938年にはハイパフォーマンスの2シーター、Fスーパーが加えられた。

 

1936年5月1日

1936年、H.S.F.の父、ジョージ・モーガン師が自宅で安らかに亡くなった。ジョージの影響力を軽視することはできない。彼はハリーにエンジニアリングのキャリアを積むように励ましただけでなく、最初のモーガン・ギャラージとウスター・ロードのファクトリーを建てる資金を提供した。彼は会社の会長になり、ビジネスの運営の多くを受け持って、ハリーがエンジニアリングに専念できるようにした。父の死後、H.F.S.モーガンは会長兼筆頭重役になり、役員会は彼の妻のルース・モーガン、ジョージ・グッドオール氏、1912年から会社に勤めているT.H.ジョーンズ氏で構成された。

 

1937年5月21日

4-4は、洗練されたパフォーマンスカーを作るモーガンの評判を保持した。1937年、バランス取りしたクランクシャフトを装備して42hpを発揮する1098ccのコヴェントリー・クライマックス・エンジンを搭載した、数台の特別なスポーツ4-4モデルがレース用に作られた。1938年、25歳のノービスドライバーでそれまでレースをほとんどしたことがなかったプルーデンス・フォーセット嬢が、ワークスがチューンしたモーガン4-4でルマン24時間レースに参戦した。コドライバーのジェフ・ホワイトと24時間を戦ったプルーデンスは総合13位で完走し、バイエニアルカップの資格を得た。ジェフ・ホワイトはコドライバーのディック・アンソニーと組んで1939年に再びルマンに参戦し、総合15位、クラス2位で完走した。

 

1938年、クライマックスエンジンは、スタンダード・モーター・カンパニーの9hpサイドバルブエンジンから発展した、OHVのパワーユニットに交換された。このエンジンは、1910年に最初のラナバウトの特許用図面を作った若い製図工で、長年にわたってH.F.S.の友人だったスタンダード社のジョン・ブラック卿の希望で特別に作られた。新しいエンジンは、シャシーの中心にマウントされたモスのギヤボックスにつながり、短いプロペラシャフトを経て5:1のリアアクスルに接続していた。シャシーには、ロッドとケーブルで作動するガーリングの8インチ径ブレーキが装着されていた。

 

1939年1月1日

第2次世界大戦の間中、クルマの生産は完全に止まり、修理のためのふたつの部門だけが維持された。それらはサービスショップとスペアパーツ部門で、ファクトリーの第3/4/5棟はスタンダード・モーター・カンパニーの航空機エンジン部門に使われ、ファクトリーではキャブレターや飛行機の着陸装置など、戦争のためのさまざまなコンポーネントの製造や、精密エンジニアリング作業などが行われた。アラン・コバム卿のフライト・リフュエリング社は他のワークショップを使い、ファクトリーに据えられたハンドリー・ペイジ社のヘレフォード爆撃機を利用して、翼の凍結防止装置や空中給油システムを開発した。

1945年、多くの熟練工が復員してファクトリーに戻り、1年後にクルマの生産が再開した。1947年、H.F.S.の息子のピーター・モーガンが除隊し、開発エンジニアとして会社に入った。1946年には、戦前のストックパーツを使って最後の2気筒スリーホイーラーが12台作られ、オーストラリアに送られた。戦後の資源不足のせいで、スチールの供給が割り当てられたときには、国内市場よりも輸出市場の注文の方が有利になったのである。しかし、海外ではスリーホイーラーは人気を得られず、そこで1950年に生産終了の決定が下された。最後のモーガン・スリーホイーラーは、1953年に工場から出荷された。

 

1945年1月1日

1945年にエンスージアストの小さなグループがモーガン・スリーホイーラー・クラブを結成し、生産は終わったにもかかわらず、急速に大きくなった。結成後まもなく、クラブはファクトリーを訪れた。写真は、戦時中の偽装がまだ残っているファクトリーの前のピッカーズレイ・ロードに並べられたスリーホイーラーである。4ホイーラーのエンスージアストを代表するモーガン・スポーツカー・クラブは、1951年7月に結成された。最初のミーティングは、レスターシャーのケグワースにあるYe Olde Flying Horseで開かれた。このふたつのクラブは今日にいたるまで、それぞれのクルマを楽しむモーガンエンスージアストのサポートを続けている。

 

1947年1月1日

1947年、スタンダード・モーター・カンパニーは「ワンエンジンポリシー」を発表した。これは、1949年以降は1267ccユニットがモーガンに供給されなくなることを意味した。そこで1949年に作られた新型モーガンのプロトタイプには、大幅にパフォーマンスの高いスタンダード・ヴァンガードの1.8リッターエンジンが使われた。このクルマは1950年にプラス4として生産された。最終的に使われたエンジンは、ヴァンガードの2088cc/68hpユニットだった。プラス4はただちにレースで成功し、モーガンは1951年と'52年のRACラリーでチーム賞を獲得した。H.F.S.の息子のピーター・モーガンは、両方のレースでドライバーを務めた。ボディスタイルはオープン2シーター、4シーター、ドロップヘッドクーペを採用した。パワーウエイトレシオが非常によかったので、プラス4はサーキットでも多くの成功をおさめ始めた。1954年にはデザインが大幅に改められ、ラジエターがカウルとグリルの内側に隠されて空力特性が向上した。翌年にはトライアンフのTR2エンジンが搭載され、パワーが90hpに上がった。その後、細部のモディファイが長年にわたって行われ、他の多くのエンジンが搭載されたが、このアイコン的デザインは生産車に残っている。

 

1955年1月1日

1955年、モーガン4/4がシリーズ2として再登場した。これは、プラス4と同じようなデザインだが、フォードの1172cc/36hpサイドバルブエンジンとインテグラル3速ギヤボックスを装備したモデルだった。(訳注・上の部分は原文が史実と異なっている―モーガンのカタログとさえも異なっている―ので事実と整合させました)。目的は、それほど豊かでないエンスージアストに、活発なパフォーマンスとスタイリングを持つスポーツカーを提供することだった。4/4は、半世紀以上たった今日もフォードのエンジンを使い続けている。

 

1956年1月1日

1956年、プラス4にトライアンフのTR3エンジンが搭載され、パワーが100hpに増えた。ボディを軽いアルミで作った場合、このクルマはおそろしく速かった。プラス4は多くのプロダクション・スポーツカーレースに勝ち、アメリカではルウ・スペンサーが表彰台の常連で、どれも「ベビードール」という名前の彼のモーガンは、数多くのファンを獲得した。

1959年、モーガンは創業者のH.F.S.モーガンの死にによって、大きな損失に見舞われた。ハリー・モーガンはモータリングの偉大なパイオニアのひとりで、自動車業界全体からたいへん尊敬されていた。彼が、1960年4月に行われた会社の創立50周年を見られなかったのは、まことに残念である。

 

1962年1月1日

1962年、ルマンの24時間耐久レースで再び成功がもたらされた。モーガン社とクリストファー・ローレンスがプリペアしたプラス4スーパースポーツが参戦して、2リッタークラスに優勝したのである。ローレンスとシェパード‐バロンがドライブした「TOK258」は、平均速度94mphで2261マイルを走った。ドライバー交替、燃料補給、ピットロードでの調整には全部で32分を要したので、実際の平均走行スピードは97mphになる。レース後、クルマは公道を楽しく自走してイギリスに戻った。

 

1963年1月1日

1963年、モーガン・プラス4プラスというまったく新しいモデルが発表された。これはコンベンショナルなプラス4のシャシーに、ストーク・オン・トレントのE.B.プラスティック社が作った、エレガントなグラスファイバー製ボディが架装されていた。しかし、このモデルはあまり成功せず、生産された4年の間に26台しか作られなかった。1964年、モーガンのシャシーは、もう1台のラジカルなモデルのベースになった。クリストファー・ローレンスとジョン・スプリンゼルがデザインしたモーガンSLRである。空力的なボディは、ルマンのプラス4がミュルサンヌ・ストレートで出した130mphを、はるかに上回る最高速をもたらした。

 

1966年2月1日

1966年、トライアンフのTRエンジンがライフサイクルの終わりに近づき、適切な代替エンジンが必要になった。そこでローヴァー・モーター・カンパニーは、まもなく登場するV8エンジンを提案した。モーリス・オゥエン氏が会社に入って新しいモデルであるモーガン・プラス8の開発責任者になり、このクルマは1968年のアールズ・コート・モーターショーで公表された。2番目のプロトタイプ「MMC11」の写真のように、プラス8はサーキットにおけるモーガンの評判を維持した。これはモーガンがこれまでに作ったクルマの中でもっとも成功した1台になり、2004年に生産が終わるまで36年間も作り続けられた。1960年代の終わりにモーガン・モーター・カンパニーは、既存のサイトの南側に追加のファクトリー社屋を手に入れた。これによってピッカーズレイ・ロードの操業はいく分か拡大した。

 

1972年1月1日

モーガンのレーシングの血統が1972年と1975年に増強された。プラス8をドライブするロビン・グレイが、フレッド・ディクソン・モータースポーツ選手権を勝ち取り、クリス・アルフォードが4/4で1975年のBRSCCプロダクション・スポーツカー選手権を獲得したのである。最初の量産型プラス8だった「MMC11」は、1978年にBRDCのプロダクション・スポーツカー選手権を獲得し、1979年にはBRSCCのプロダクション・スポーツカー選手権で勝利を上げた。ドライバーは、創業者の孫のチャールズ・モーガンとロブ・ウェルズだった。モーガンは、当時のイギリスで行われていた唯一の24時間レースだったノーフォークのスネッタートン・サーキットのウィルハイヤー24時間で、1980/81/82年に1台のクルマのエントリーによる最長走行距離を達成した。アメリカでは、トリー(訳注・原文はTonyになっているがこれはTolyの間違い)・アルタノフがUSナショナル・プロダクション選手権のクラスHを勝ち取り、1982年にはスティーブ・コールが、ワンピースのアリゲーターボディで有名なウルトラライトウエイト・モーガンでプロダクションスポーツに勝ち、イギリスのナショナル・スポーツカー選手権がモーガンの手に渡った。1989年、プラス8の排気量が3.5リッターから3.9リッターになり、これによってプラス8は最強の加速を持つロードカーの1台であり続けた。ドイツのAuto Motor und Sport誌は、5速でテストした中でこれまでの最速のクルマとして、モーガン・プラス8に「フレキシビリティの世界チャンピオン」の王冠を与えた。

 

1985年1月1日

1985年、プラス4はフィアットのエンジンを搭載して再登場し、その2年後にはローヴァーの希薄燃焼式2リッターOHCエンジンに載せ換えられた。その年には、創業者の孫のチャールズ・モーガンが常勤として会社に入った。ロンドンでモーガンのエージェントを営んでいたブルース・ステイプルトンは、ポルシェやランチアが走るインターナショナル・スポーツカー・レーシングのグループ4で、勇敢にもモーガンをウイナーの列に加えようと試み、ロンドン‐シドニー・マラソンでは初期のプラス8をオーストラリアまで12000マイルも走らせ、いくつものステージで最速タイムを記録した。ピレリ・マラソンでは、リック・ボーンがモーガン・プラス4スーパースポーツで総合2位になり、1950年代の国際ラリーで活躍したプラス4の成功をよみがえらせた。

モーガンのオーナーに自分のクルマでレースをするチャンスを与えようと考えた、ワンメイクシリーズのモーガン・スポーツカー選手権が1987年に始まった。この年間選手権は急速に発展し、309台のグリッドが普通の光景になった。このシリーズの成功はモーガンだけのヒルクライム選手権を生み出し、ヨーロッパではドイツのモーガン・オーナーズクラブに、コンチネンタル・モーガン選手権というレースシリーズを始めさせることになった。1987年から1993年まで、グレアム・ブライアントとマシュー・ヴーアのプラス8は、750モータークラブのロードスポーツシリーズやワンメイクレースで、モーガンが他のメーカーに対してどれだけ速いかを一貫して証明した。

モーガンは1980年代と'90年代を通して、4/4はエントリーレベルのモデル、プラス4はもう少しパフォーマンスが欲しい人向け、非常に速いプラス8はトップレンジモデルとして、スポーツカーのクラシックレンジを作り続けた。1997年、量産モデルは徹底的にオーバーホールされ、新しいアルミのスーパーフォームフェンダー(4/4以外のすべて)の標準化、長くなったドア、エアバッグを装着できるフェイシア(ダッシュボード)、4.6リッターV8仕様の登場、全体の素材の全般的な改良などが行われた。

 

1990年1月1日

1990年代の半ば、注目すべき新しいモーガンが具体化し始めた。サーキットで競争力を持ち続けて、世界レベルのスポーツカーを作るというモーガンの評判を維持するために、チャールズ・モーガンはすべてが新しいシャシーの開発を決断した。モーガンディーラーのビル・ウィケムとともに、チャールズは目的を限定して設計した新しいシャシーのプラス8で、1996年に7戦のBPR国際レースシリーズに参戦した。このレースは1997年にFIA GTシリーズになった。新しいマシンは、ファクトリーが成功するレースカーを作って走らせることができるのを証明したが、このシリーズにはもっと高いパフォーマンスが必要なこともわかった。既存のボディ形状の空力特性が、成功を限られたものにする大きな要素だったのである。

 

2000年3月1日

彼は、エンジニアのクリス・ローレンス(1962年のルマンでモーガン・プラス4「TOK258」に乗ってクラス優勝した)とともに、これを達成した。新しいモデルは、5年にわたってファクトリーとサーキットで開発され、2000年3月のジュネーブショーでついにベールを脱いだ。エアロ8は、丈夫で軽い張り合わせアルミシャシーと、オールアルミのボディパネルを使った非常に先進的なクルマで、いぜんとして木製フレーム使って作られている革命的に新しいモーガン・スポーツカーだった。BMWの4.4リッターV8エンジンは、エキゾチックなスーパーカーなみのドラマチックなパフォーマンスを与えた。エアロ8はただちに成功して、たくさんの注文が寄せられた。

 

2002年1月1日

モーガンは、クリス・ローレンスとリチャード・シェパード‐バロンの勝利から40周年にあたる2002年に、エアロ8GTという新型車のレースバージョンとともに、またルマンに戻ってきた。リチャード・スタントン、スティーブ・ハイド、リチャード・ヘイがドライブするクルマは、レース中に交換したリアアクスルからの振動の再発に見舞われたが、最終的に17時間でリタイヤをする原因になったのはエンジンの故障だった。完走はできなかったものの、わずか数ヶ月の開発と少ない資金で走った新しいクルマとしては、りっぱな成果だった。翌年のレースへのモーガンのエントリーは、不可解にも主催者のオートモビーレクラブ・ドゥ・ルウエに拒絶されたが、しかし2004年には再び参加した。そのときのドライバーはアダム・シャープ、ニール・カニンガム、スティーブ・ハイドだった。レースでは燃料ポンプのトラブルで3時間以上も遅れ、2回ラジエターを交換し、スロットルケーブルの切断や深刻なエンジントラブルなどで、控えめに言っても波乱に富んだものになったが、マシンは24時間を走りきった。これは、世界でもっとも過酷なレースでのりっぱな成果だっただけではなかった。モーガンのピットクルーの際立ったパフォーマンスが認められて、レースでのベスト・テクニカル・クルーに対するチーム賞も授与されたのである。

 

2003年2月1日

2003年、モーガン・コミュニティと自動車業界は、ピーター・モーガンの死によってもっとも注目に値する男を失った。ピーターは、いくつかのとりわけ難しい時期を通して成功のうちに会社の舵を取った。今日のモーガン・モーター・カンパニーの絶え間ない成功は、この紳士にふさわしい賞賛である。

 

2005年1月1日

エアロ8は、発表された後もひんぱんにリファインとアップデートを行い、2005年にはエアロマックスという見事な新しいハードトップ仕様が発表された。モーガンのエンスージアストで、ジュネーブのバンキ・ベアリング・ブラザース・ストゥールザ頭取のエリック・ストゥールザの息がかかったエレガントなデザインは、コヴェントリー大学出身の才能ある若者、マシュー・ハンフリーズの作品だった。もともとはワンオフを意図していたが、関心が高かったので、非常に特別な100台の限定モデルとして量産化が決定された。クルマは発表から数ヶ月のうちに完売した。

 

2006年1月1日

エアロの開発の間も、伝統的なモデルの生産はますます台数を増やして続けられた。だが、有名なプラス8は生産が終わり、ロードスターV6と交替した。表面的にはプラス8と似ていたが、このニューモデルはフォードの3リッターV6エンジンを搭載し、モデルレンジにハイパフォーマンス・クラシックを用意するモーガンの伝統を守っていた。

 

2008年1月1日

環境的にクリーンで効率的なスポーツカーに対するモーガンの取り組みを強化するために、防衛技術の多国籍企業であるキネティック社や他のハイテク組織と協力して、注目すべきライフカーが2008年に開発された。水素を使う燃料電池を動力とするこの先進的なクルマは、ウルトラコンデンサーのバンクに蓄電された電力と、駆動輪に直接つながった4つの超効率電動モーター/ジェネレーターを使って、リッターあたり53kmの燃費に匹敵する性能を達成するように設計された。このシステムには回生ブレーキも含まれており、ブレーキングと減速中の運動エネルギーの50%までを取り込むことができる。シャシーとボディはすべてモーガンで、エアロから開発されたシャシーと、先進的な木製フレームに組み付けた軽量アルミのパネルで作られている。

一方、エアロマックスに対する際立った反応は、モーガンのデザインチームに、定評のあるエアロのシャシーをベースにする、もう1台のエキサイティングなスーパーカーを開発することを促した。マシュー・ハンフリーズとデザインチームは、ウインドスクリーンを前進させ、コクピットからテールにかけてエアロの滑らかなラインを残して、独特の新しい形をデザインした。これは広々としたトランクが特徴で、天気が良いときはオープンエアのオプションをドライバーに与えられる取り外し式のルーフパネルも、そこにしまうことができる。パワートレーンはBMWのB4.8 N62エンジンで、2008年2月からエアロモデルに使われているものだ。

 

2009年1月1日

2009年はモーガン・モーター・カンパニーにとって非常に特別な年で、ファクトリーと世界中のエンスージアストが、もっともアイコン的なイギリスのスポーツカーの製造100周年を祝った。何千人もの人々がモルヴァーンを訪れ、彼らをもてなすためにモーガン・ビジターセンターが、メインファクトリーの敷地の北東に建てられた。この新しい施設は広々とした受付エリアと、数多くの魅力的なアクセサリー、書籍、ファッショナブルなモーガンウエアを売るファクトリーショップを用意している。また、新しいモーガン・ミュージアムも収容され、工作物、映像、過去100年の生産品のいくつかを展示している。

2009年5月1日

100周年を記念して、新しいエアロが賞賛のうちに発表された。エアロ・スーパースポーツと名づけられたこのモデルは、1930年代の高性能スリーホイーラーに与えられた名前を復活させた。100周年を祝うもう1台の新しいクルマがモデルレンジに加えられた。スーパースポーツ・ペダルカーという、若いエンスージアスト向けのこの非常に特別な限定仕様マシンは、木製ボディフレームとアルミパネルを使って、フルサイズのクルマとほとんど同じ方法でファクトリーが手作りしたものである。

 

2009年5月1日

モーガンのブランドにとってモータースポーツが重要であることを強調するために、2台の新しいエアロ・スーパースポーツが、ルノーのグランプリドライバーだったジャン・ピエール・ジャブイーユとジャック・ラフィが所有して運営するフランスのチームによって、GT3レースに参戦した。チームはシルバーストンで行われた最初の2レースに優勝し、100周年の祝いの華麗な始まりを告げた。そしてシーズンを通して、世界の35台のベストカーが並ぶグリッドのトップ5以内でコンスタントに走った。FIAが異論のあるペナルティを課さなければ、モーガンは選手権で総合優勝を飾るチャンスがあったかもしれなかった。

100周年を記念する最大の祝典は7月に1週間にわたって行われ、モルヴァーンから近いチェルトナムの競馬場で行われた、膨大な数のモーガンの集会で最高潮に達した。何千人もの人々がイベントに参加し、海外からは23カ国のビジターが出席した。3200台のモーガンがショーグラウンドと駐車場に並べられ、天気があまり良くなかったにもかかわらず、大成功として褒め称えられた。